菌の研究と、菌を使った食品の製造・販売をするバイオテックの執行草舟氏に、独自のリアリズムに基づく宇宙論、文明論、生命論を伺いました。(全3回)
取材日:2021年5月26日
バイオテック本社ビルにて
総称バイオテック(BIOTEC。株式会社 日本生物科学および株式会社 日本菌学研究所、執行草舟コレクション 戸嶋靖昌記念館(美術)の3部門から成る事業)の代表取締役社長であり美術館館長の執行草舟氏を取材しました。
第1回「宇宙と文明と生命を考える(1)菌とはなにか/宇宙の秩序(執行草舟氏)」の続きです。
第2回の本記事では、目に見えないものの価値、ヒューマニズムとキリスト教の関係、ヘーゲルの「類・種・個」の思想について語られます。
──インタビュアー(木村):執行さんはご著書でさまざまな「目に見えないもの」を大切にされています。菌のように目に見えないものもありますし、精神性を非常に重視されています。
執行草舟氏:愛や友情、忠義、ぜんぶ目に見えないものですね。しかし、これらは人間にとって一番重要なものです。私は著書でそういうものを「魂の働き」だと書いていますし、その魂の食べ物となっているのが、宇宙に由来する「負のエネルギー」だと言っています。
だから、「目に見えないものが大切」というのは、愛や忠義といった魂の価値を最重要視するということですね。逆に、人間にとって一番どうでもいいものは肉体だということになります。
──他方、体の「養生」についてもご著書で書かれていますが、やはり魂を大切にするとおのずから心身にも無理なことはしなくなるものでしょうか。自分を壊すようなことはしないといいますか。
それはそうです。
──最近は、エシカルについて「エシカルとは思いやりである」という言い方を耳にします。思いやりも魂の価値でしょうか。
そうですが、思いやりも行き過ぎると、思いやりの価値がなくなってしまいます。というのも、「魂を活かす」という生き方は、先にも話した宇宙の秩序を守ることだからです。しかし、現代では行き過ぎたヒューマニズムによって「思いやり」のようなものが過度に重視されています。
この流れに対して、「弱者に配慮しすぎではないか」といった異論も口にできないほど、ヒューマニズムは社会に浸透しています。そこまで行くと「思いやり」も行き過ぎだということです。
──ヒューマニズムについては『脱人間論』で真っ向から批判なさっていました。
今の世の中はヒューマニズムという価値観で一色に染まってしまいました。「ヒューマニズム」がすでに神であるかのような語られ方をしますが、あれはもともとキリスト教の、中心ではない部分にあった考えです。
──キリスト教の一部分にすぎない、ということでしょうか。
当たり前ですが、キリスト教の中心にあるのは神です。つまり、宇宙の秩序ということです。福音書にも、この神の秩序を守るかぎりにおいて、思いやりも大切だと説かれています。
──あくまで一番は「神の秩序」であり、言ってみれば二次的なものとして、思いやりも組み込まれているのですか。
そうです。私が著書でもくり返し引用しているのは、聖書のマタイ福音書10章34節です。現代流の言葉に勝手ながら言い換えると、「神の言葉がわからないのであれば、親子も離別、夫婦は離婚、子供も捨てなさい」というような内容の言葉です。キリストが言っていますね。
*「地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和ではなく、剣(つるぎ)を投げ込むためにきたのである。わたしがきたのは、人をその父と、娘をその母と、嫁をそのしゅうとめと仲たがいさせるためである。そして家の者が、その人の敵となるであろう。」(マタイ10 34-39)「新約聖書」口語訳(日本聖書協会)より
──その箇所とともに「火を投げ込む」という言葉も引用されていたかと思います。
あれはルカ12章49節ですね。同じ内容の言葉ですが、聖書のこれらの部分はもはや読まれていないかのようです。これが、キリスト教の神が失われたということでしょう。ところが、キリスト教の一部であった「ヒューマニズム」に当たる部分は、今も残っていて独り歩きをしています。
しかし、私はキリスト教にあった人助けや思いやりが「悪い」と言っているのではまったくないのですよ。キリスト教の中心には神があり、その神を愛し信じることが一番大切だったと言っているのです。
──たとえば、隣人愛の教えや「善きサマリア人のたとえ」が、今の「ヒューマニズム」につながって来るということでしょうか。
そうです。それらの教えが現代のヒューマニズムに連なっています。今ではヨーロッパもアメリカも、ヒューマニズムに反するような聖書の読み方はできなくなっているのでしょう。
キリスト教が本体の活動としてではなくやっていたこと──病院を建て、救貧院を運営し、困っている人を助けるといったことだけが、今も残っていますね。くり返しますが、私はそういう活動を否定しているのではないですよ。神への信仰があったうえで、そういう奉仕活動をするのは重大なことです。
──中心にあったはずの厳しい生き方が失われた、ということなのですね。
ヒューマニズムだけの方が心地よいのでしょう。厳しさがないものだから。
──話が変わるようですが、執行さんは戸嶋靖昌記念館の館長でもあります。私も展示室を拝見しますが、そのコレクションの柱の一つである、洋画家 戸嶋靖昌の芸術には厳しさがあります。貴館は、厳しい精神性のある絵をコレクションとして残そうとしているのでしょうか。
そういうことです。戸嶋靖昌記念館と執行草舟コレクションでは、人間が魂を込めて作った、命懸けの芸術作品を残そうとしています。
今の時代には「魂」の価値は見失われています。しかし、そもそも人間の魂とは何だったのかを後世に伝えたいと私は思っています。戸嶋靖昌は、自分の命よりも芸術の方が大切だという心意気で絵を描き、彫刻を作りました。つまり、自分の命を削って作品を作っていました。そういう芸術家の代表の一人として、私は戸嶋靖昌を考えています。
見る人が見れば、戸嶋の芸術から、人間が魂のため、すなわち自分の命よりも大切なもののために生きたことがわかります。そういうあり方を残そうとしています。私の著書で言うと、『憂国の芸術』がそういう芸術作品を扱っています。
*『憂国の芸術』執行草舟、講談社エディトリアル、2016
──そういった作品を観ることによって触発される人もいるはずだ、ということですね。執行さんの言葉でいえば「負のエネルギー」が伝わる、つまり、高い精神性を持つ力が作品から伝わると。
才能のある人ならば、賦活されるでしょう。私は、才能のある人は今もこれからも必ずいると信じています。そういう人は、過去の芸術のうちに魂が燃えたことを見て取り、魂とは何かを理解するでしょう。そうして、人間の「魂の価値」が子孫へと引き継がれるはずだと思って、戸嶋靖昌記念館を運営しているわけです。
──わかりました。次に、日本の「世間」について伺いたいと思います。エシカルSTORYで記事を掲載する時に、「この記事や書き方では共感されないか、反感を買うかもしれない」と感じることがあります。失礼ながら、執行さんのインタビュー記事も、反感を呼ぶ場合もあると思います(笑)。
たとえばそういった場面で、世間のなかにある固定観念や束縛を感じます。それに抗いたい。しかし、私は「世間は100%悪いものだ」と言いたいのではなく、どうしたって私たちは世間のなかで生きるしかないのですが、それをわかった上で「反世間」をやる必要があると考えています。つまり、「世間をなくしたい」のではなく、むしろ世間に抵抗することが、世間や社会を維持し、よりよくするために必要だと感じる、ということです。この「反世間」をどう思われるでしょうか。
木村さんの言う「反世間」がなかったら、世間も活かせないですね。「反」があって初めて「正」が活かせます。極端な例に聞こえるかもしれませんが、ビックバンで宇宙が生まれた時に、粒子と反粒子が同時に生成しました。何においても「反」がなければ「正」もない。そう考えれば、当然「反世間」という気持ちが人々のなかになければ、世間の秩序そのものが保てなくなります。
実際に、今「世間が非常に崩れてきた」と言われますが、それは世間で生きる人のなかから「反世間」という気持ちがなくなったからです。今では「世間に順応するのが利口」と相場が決まってしまっています。こうなると世間が崩れますね。本来は「反世間」の気持ちが、世間の秩序を作り上げてきたわけです。
これはもっと哲学的に言えば、ヘーゲルから生まれた思想に基づいています。ヘーゲルは、人類について「類があり、次に種があり、それから個がある」と言っています。
* ヘーゲル(1770-1831)は、ドイツの哲学者。代表的な仕事として、弁証法の思想をまとめあげた。
──「類、種、個」ですか。その思想は存じません。
たとえば、民族というのは「種(しゅ)」です。同じように世間や家族、日本の大家族も、我々が背負う歴史もみんな「種」ですね。他方、我々の一人ひとりは「個(こ)」です。この個というのは「種」のなかから、「種」に反発して生まれたのです。
こういう人類学的なものの見方がわからないと、「反世間」というようなこともわからなくなります。
さて、その「種」のさらに上には「類(るい)」というものがあります。人間で言えば、日本民族の上に人類があるということです。そして、この「類」というのは我々の持つ「理想」なのです。
だから我々、人間が今、理想として持っている気持ちというのは「類」が持っていたものと言えます。それは宇宙エネルギーとも言えます。
ですから巨視的に捉えると、まず宇宙エネルギーという「類」があり、そのもとに地球上では「民族」のような「種」ができた。そして、その「種」の中から、「種」というエネルギーに対する反発エネルギーとして「個」が生まれて来た。これがもともと人類の誕生だと、そう言えます。
──最後に「個」が生まれなければ、人類もまた生まれないということでしょうか。
生まれません。
──世間であれ、民族であれ、社会であれ、そういった「種」であるものに、「個」である私たちの一人ひとりが反発することによって、それらの秩序をかえって保っているということですね。
そういうことなのです。
──それは「弁証法」によって成り立っているということでしょうか。
まさにそういう弁証法なのです。
ふだんから私は「不合理を愛せよ」とよく言いますが、あの不合理というのは「種」なのです。「種」はいつも不合理です。その不合理に反発して、初めて「個」ができたのです。だから、「個」というのはもともとわがまま、自己中心なのだと言えます。
「種」はこの「自己中心」を戒めています。そして、この「種」が向かう目的は「類」であって、それは我々の言葉で言うと「理想」なのです。
*「弁証法」はDNAの二重螺旋のように、ふたつのものがぐるぐると相手の回りを巡りながら、螺旋状に進んでいくこと。このふたつは相反するものだが、相反するからこそ、互いに相手を必要とし、そして時に融和しながらどこまでも新しいものに変わり、進化・上昇する。そういう対話的な関係を結んでいる。
──「エシカル」もそうですが、私たちがなにか理想を追い求めるのであれば、「種」に対しては抗い続けなければならない、ということですね。
それだけでなく、「種」に対して強くなければ駄目なのです。「類」は「種」の上にあるものですから、「個」は「種」と戦い続けて、勝ち抜けないと「類」には行けません。
──私たちは、世間のしがらみや家族の不和、社会の中にある壁を超えて、突き抜けなければ、理想には至れないと。
そうです。突き抜けなければ駄目です。
例として良いかはさておき、すごく簡単に言うと、かつて宗教は「種」を突き抜けて「類」に行かなければならない、という考え方から生まれました。そのために宗教の教えや修行がありました。
たとえば、禅も修行によって、現世を突き抜けて理想の世界に行くということです。この理想の世界が、先ほどからくり返している「類」のことです。だから、宗教とは何かと言うと、「『種』が持っている不合理」を突き抜けるための修行なのです。それで、キリスト教でも仏教でも、昔は修行が大変厳しかったわけです。
しかし、現代人は、この修行が嫌になってしまったわけです。それで、厳しい修行の過程を飛ばして話しているのが、今「スピリチュアル」と呼ばれているものです。「エコ」も同じでしょう。
つまり、スピリチュアルもエコも、言っていることは間違っていませんが、「個」から一気に「類」の話に飛んでしまうのです。
──先ほどの「種」を突き抜けるための悪戦苦闘が足りないということですね。
ヘーゲルの哲学を継ぐ日本人の哲学者で言うと、田辺元(たなべ はじめ)という哲学者がやはり「類・種・個」について論じています。京都大学の哲学者で、西田幾多郎(にしだ きたろう)とともに日本の哲学を樹立した代表です。私は今の時代に必要だと感じて、ちょうど田辺元を読み返しています。
要するに、今で言う「スピリチュアル」の人と、昔の本当の信仰を持った宗教家とはどこが違うかと言うと、「種」の厳しい不合理の壁を突き抜けて「類」に及ぶかどうかです。
宗教家ではないですが、ベートーヴェンもまた「苦しみを突き抜けて、歓喜に至れ」という思想を発していますね。「第九」の「歓喜の歌」です。あれはまさに「種」の世界を勝ち抜いて「類」にまで行かなければいけない、という生き方を表しています。
──執行さんの見立てでは、エシカルやサステナビリティはすぐに「類」の話へ飛んでしまうということでしょうか。
それらはすべて理想の話です。「だから悪い」と言っているのではないですよ。理想の話は大事だとしても、「種」に勝てないのであれば、ゼロということです。「机上の空論」や「綺麗事」という言い方がありますが、そうなってしまうのです。
第3回「宇宙と文明と生命を考える(3)エシカルに生を賭ける(執行草舟氏)」では、「共同体」の崩壊、新しい「種」になりうるインターネット世界、「希望」のパラドックスがテーマになります。
取材/文:木村洋平
写真提供:㈱日本生物科学
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