【対談】日本発、世界に挑むエシカル戦略(エシカルピックス!)

今回の対談は、新しい時代の仕事論を拓いた『ポスト平成のキャリア戦略』の「プチ」続編として企画された。NewsPicks 代表取締役 佐々木紀彦さんと社外取締役 塩野誠さんのお二人にエシカルSTORYからお願いし、ご快諾をいただいた。エシカルにとって大切な「設計」と打ち出し方のヒントとは?国際社会や経済の動向、日本の独自性を踏まえて領域横断的に考える。

取材日:2020年9月10日


ポスト平成のキャリア戦略刊行時左が佐々木紀彦さん右が塩野誠さん

*「経済を、もっとおもしろく。」というヴィジョンを掲げるソーシャルメディア NewsPicks の代表取締役である佐々木紀彦さんと、NewsPicks 社外取締役であり、経営共創基盤(IGPI)共同経営者/マネージングディレクターである塩野誠さんにご対談いただいた(以下、敬称略)。


──エシカルSTORY 代表 木村:日本の10代から40 代くらいの働き手にとって、今後エシカルやサステナビリティはどのような重要性をもつとお考えでしょうか。

佐々木:SDGs(持続可能な開発目標)やエシカルは、ここ2,3ヶ月で耳にする頻度が一気に増えました。お会いするひとみんなその話をしているんですよ(笑)。欧州はもっと早いでしょう?

塩野:SDGsが国連で提唱された2015年から、ずっと言われています。私のいるヘルシンキ(フィンランドの首都)では、学校にSDGsのポスターが張ってあるのを見ます。ですから、偉いひとがバッジをする日本の空気とはちがい、「みんなのもの」感があります。

佐々木:日本でも20代のひとはエシカルやサステナビリティにとても高い関心を持っています。不可逆なトレンドですね。これはすごく大事なことだと思います。ただ、もうちょっと思想的な意味での根っこがほしいな、という気もしています。単なる輸入品のファッションになっている感じもします。ふわっとしてしまう。SDGs的なものは日本の伝統にも根づいていると思いますので、深く考えたうえで体系化していく、歴史伝統に根づかせることができるかが重要かなと感じます。すると「ファッション」を超えたものになるのかな、と思いますね。

昨日も、環境問題のニューノーマルということで小泉(進次郎)環境相や落合陽一さんと議論していました。それで「なぜサステナビリティをやるのか?地球環境を守るためだ」というよりも、日本のフィクションに絡めて、もうちょっと大きい物語ができてもいい、と感じました。たとえば、「おてんとさまが見てる」「やおよろずのかみ」といった感覚と結びつけて。

塩野:さきほどは揶揄的に「バッジをつけて」とは申しましたが、改めて日本がどういう国かを大前提から捉えると、「日本ほど高度に最適化された社会はない」です。綺麗な飲める水が出てきて、お湯を沸かせて、衛生面もしっかりしている。世界にこういう国はほかにない。

では、なぜそうなったか?敗戦で物資もなく闇市に通っていたところから、なぜここまで来られたのか。それを考えると、佐々木さんもおっしゃるようにアニミズム的な感性はやはり大事で、「おてんとさまが見てる」も「物や水にも魂がありますよ」もそうですね。たとえば、宮崎駿さんの『千と千尋の神隠し』だと、水や川が完全に擬人化されています。湖や沼には主がいて、主を怒らせたら大変だ、というバックグラウンドがあって、そこにテクノロジーが加わった非常に不思議な社会がこの日本ですね。

ただ、いまの私たちはそういった地続きの歴史を忘れがちになります。それを急に、ヨーロッパから「リソース(資源)って有限なんだぜ」と言われても心に響かない(笑)。それよりも、あの沼の主を怒らせてはいけないとか、あの川で野菜を洗えるのはこういう言い伝えがあって、といった話ができた方がよいかもしれない。そこには極めて土着のものがある。その土着性を踏まえずに「リソースは有限だから使用を最適化すべき」と言われても、学校で教えられる子供の立場だったら、イヤですよね(笑)。

エシカルやサステナビリティを伝えるアプローチでは、そういうところが大切になるのではないでしょうか。


佐々木:結局、幸福論に行き着くのでしょうね。「GDP(国民総生産)からQOL(生活の質)へ」とも言われますが。じゃあ、なにが生活のクオリティなのか?そこにサステナビリティもかかわるのかもしれませんが、そのイメージや肌感覚がよくわからない。たとえば、デジタル社会でインスタやLINEがあって、そこにコンビニがあることが幸せなのか。

最近の私はむしろ、京都の鴨川で風に吹かれて日本料理を食べたりすると、京都の伝統文化を学んだり、幸せを感じます。そういう幸福感がないと、表面上、エシカルやサステナビリティをなぞってもどうかな、と。多様であっていいという前提のもとで、新たな幸福のモデルが必要なのでしょうね。

塩野:ええ。そこで一番の難しさは「幸福は多様でいい」と思っていいところが理解できないことでしょう。幸福のモデルとしての「サザエさん家庭」はもういない問題、と呼んでもいいと思いますが、「お父さん、お母さん、お兄ちゃん、妹が揃って」というモデル家庭はすでに幻想ですよね。そういうなかで、「幸福は多様でいい」ということをわかってもらうのはとても難しいことです。

たとえば、教育も「勉強が好きだから博士号をとった」はよいですが、修士や博士がえらいという価値観でかえって不幸になるひともいるでしょう。「学歴、偏差値」というKPI(重要な指標)に依らず、ウェルビーイング(幸福)にKPIを置けば、「私は大学に行かない方がいい」という選択もあるはずです。その多様性を認めるくらいの社会にならないと、きついですね。

──木村:その「認める」というのは、「高卒もまたいいよね」という認識の話でしょうか。それとも、「高卒でも働く選択肢が狭められない社会に再設計しよう」といった仕組みの話でしょうか。

塩野:両方ですね。やっぱり人間ってそこまで強くない、というのもありますし、とくに日本は同調圧力が強く「ひとからどう見られるか」「親戚からどう見られるか」などが大きな問題になるからです。

たとえば、これは思考実験ですが、日本で小学校の教師の年収を3倍にできたらどうでしょうか?仮に、小学校の先生が飲み会で一番モテる、といった状況になれば、これは世界が変わりますよ。実際、フィンランドでは教師が人気職なんです。教師は「かっこいい」のですよ。みんな修士以上ですし。

そういう設計ができると、幸福の価値観も変わるんじゃないでしょうか。「こういうのがかっこいい」を作ってしまうわけです。

佐々木:明治時代も、師範学校を出た教師は偉かったですよね。『坂の上の雲』はもう古いかもしれませんが、秋山好古は陸軍で成功して、最後は松山の校長先生になりました。地元に学びを還元することが一番の幸福という一つのモデルを作ったと思うのですよね。立派なモデルです。いま、そういうモデルが作れるでしょうか。

モノや物質のサステナビリティをいう前に、社会のサステナビリティはどうなのかな、と。まさに財政赤字のようなこと、つまり国家の根幹では誰もサステナビリティを気にしていないのに、目の前のコーヒーがサステナブルかどうかを気にしても、それだけだとダメなんじゃないかな、という気がしていて。両方、大事なんですけれどね。日本にはいま危機が来ているので、「環境問題のほかにも危機があるんだよなあ」と思ってしまいます。


塩野:それはあります。私と佐々木さんがよく例にあげる『後世への最大遺物』の話になっちゃいますよね。なにを遺せるかを考えた時、その「なにを遺せるか」が「どう続けられるか」なんですよね。

*『後世への最大遺物』青空文庫はこちら)は日本のキリスト者、内村鑑三(1861-1930)の講演。のちに本として出版された。「われわれは後世になにを遺せるだろうか?」という問いを「事業、文学、教育」といった観点から考察する。そして、艱難辛苦のなかを生きて世界に人格的な価値を遺していこうという強い意志を示す。
『後世への最大遺物・デンマルク国の話』内村鑑三, 岩波文庫, 2011

佐々木:生き様とかですよね。

塩野:サステナビリティのなかにそういうことも本当は包含されるはずです。「どう続けたいのですか」と問われているのだから。

佐々木:だから、たとえば我々が先祖のことを考えてお墓参りに行きますよね。そこで祖父母といったひとだけでなく、祖先に対する思い、あるいは過去や未来への垂直的なつながりを大切に思う倫理はいまどれくらいあるのか、と問いたくなります。それがあれば、地球環境も気にするわけじゃないですか。孫の代、ひ孫の代までよい環境、日本、地元を遺そうと。そういう倫理意識はかなり薄れた気もしませんか。

塩野:それ、さきほどおっしゃった物語の不在ですよ。

佐々木:そうですよね。

塩野:物語で一番わかりやすいのは、戦争を知らない世代が戦争を始める、ですよね。「あの時こうだった」とおじいちゃんが言ってた、おばあちゃんも言ってた、と語り継ぐことは記憶の継承です。しかも、血がつながっているひとの物語でもある。それが断絶されるとおかしなことをやってしまう。


佐々木:あとは、少子化もありますね。社会から子供が減ることによって、普段の生活の肌感覚として、将来への感覚を持ちづらい、というところはあるでしょうか。

塩野:ああ、ただそこは「そういうわけでもない」という前提はあってよいと思います。たとえば、一説には江戸の社会って再生産しない社会だったんですよね。江戸に上京して出稼奉公をしていると、婚期がないんですよ。相当うまく行かないと、子供を持てない。農村から出てきて商人として名を成しながら子供を持つ、というのは難しかった。だから、どんどん地方から江戸にひとが来て、入れ替わって出稼奉公する「上京モデル」なんですよね。そういうなかで太平の世があった。だから、刹那的なところもあり、喧嘩と火事が楽しい、という社会です(笑)。実際、すぐ建物は燃えてしまいますしね。けれども、文化は爛熟しました。

そう考えると、さきほどの「地縁、血縁モデル」の再定義が課題になるのだと思っています。社会全体で子供をどう育てるのか、という。

佐々木:そうですね。団地もそうですが、社会や地域で子供を育てる文化はありました。

塩野:隣のおじさん、よそのおばさんに怒られて子供が言うことをちゃんと聞く。そういう文化がなくなったのでしょうね。

佐々木:それってノスタルジーであって、二度と戻って来ないのでしょうか。それとも、いま特殊な状況のなかで奪われたのでしょうか。

塩野:もし奪われたのだとしても、思い起こさせて再設計できると思います。たとえば、ヘルシンキですと、ベビーカーを押しているひとと乗っているひとは公共交通機関を無料で利用できます。これは「そういうひとを大切にする」という思想に基づく設計の問題です。それは残念ながら、満員電車に近い状態でベビーカーが来ると舌打ちする世界とはちがいますよね。

佐々木:ヘルシンキのその例は、民意が新しい設計を後押しして、コンセンサスになっているのですものね。

塩野:そう、コンセンサスです。「そりゃそうだろう」という感覚を持っている。一番、政治的にいえば、子供という言葉をすべて「将来の納税者」と言い換える、という発想ですね。

佐々木:「子供の分まで親が選挙の票を持つ」というアイデアもよく聞きます。それが実現したら、大きく変わりますよね。仮に3人の子供いたら、3票余分に持つというような。それぐらいやるのもアリじゃないかと思います。

塩野:それは変わるでしょうね。その時、なにに向かって制度変更をするのか、意識する必要はあります。つまり、未来、いま、過去のどこに焦点を当てるのか。いま享受している社会保障がなくなるのは許せない、という話なのか、それとも未来のあり方を見据えるのか。


佐々木:藤原和博さんは「日本人は絶対的に現世利益を求める」とよく言うんですよね。そうだとすると、「現世利益が大事」のなかでサステナブルであることの合理性や倫理が根づかないと、日本の場合は難しいのかな。

塩野:そういう意味でいうと、日本で私欲を「公(おおやけ)」に持っていけたのは、広い意味での「家(制度)」があったからですよね。「一族」ともいいます。だけど、いまの時代に一族といっても、話題が自分の息子の中学受験とかになっちゃいますから(笑)。それではだいぶ「公」から離れてしまう。

佐々木:そうだよなあ。一方で武士は後の世の名誉のために命を断つことさえ厭わない。そういう風に名誉を重んじましたね。

塩野:武士の絶対数は少なかったとしても、その思想は憧れを持って見られていました。

佐々木:あれは現世利益ではないですね。

塩野:まあ、『葉隠』は完全にちがいますよね。「武士道といふは死ぬ事と見附けたり」ですから。

佐々木:そうですよね。まさにいま社会のリーダー格になって、ノブレス・オブリージュ的に生きていかなければならないエシカルなひとたちだけでも、本当に「未来につながる」という意識を持てば、日本社会はかなり変わりますよね。


塩野:それで言うと、『ポスト平成のキャリア戦略』でも問題提起しましたが、「エリートが安すぎる」という問題はあります。Twitterワールドで「エリートが小金持ち」とされているのはちょっと安すぎる。エリートになりうるひとが、「自分は運がよかったり、頭がよかったりしたために、果たすべきことがある」という意識を早い段階でインストールしないと、小金持ちで満足してしまう。それだとノブレス・オブリージュからは遠いですね。

佐々木:その意味では、20代の若いひとたちが社会性を大事にして、ノブレス・オブリージュ的な意識を持とう、そっちの方がかっこいいよという文化は生まれている気がするんですよね。それは一つの希望かな、という気はします。一方で、自分が稼げるというハングリーな部分がなく、社会性が強いだけだったら「それで日本を回せるのかな?」とも思うんですよね。

塩野:ただ、それは事例としては、米国のポピュリズムを思わせます。よく言われることですが、米国のアイビーリーグ(* 一流大学群の呼称)出身のひとは、稼いでからいいことをするのか、いいことをしてから稼ぐのか。前者の場合、「ヘッジファンドに行ってからいいことしたい」ひとが志を持ち続けられるのかという問題があります。実際、持ち続けられないひとも多い。だから、トランプを当選させたひとたちは「我々 vs 彼ら」という図式で考えて、政治エリートは自分たちにはなにもしてくれないと思っていたわけです。それがトランプを信望する無血革命だったんですね。

日本に戻すと、たとえば官僚のなり手や教師のなり手が減っています。それはきちんとした報酬や待遇が与えられていないという「設計ミス」だと思います。