武相エリアでひとを輝かせる経営者の根っこにあるもの──情熱と恩返し(保志真人さん)

飲食業を中心に据えて、地域をプロデュースする株式会社キープ・ウィルダイニング代表取締役の保志真人さんにお話を伺いました。

笑顔で取材に応じてくださる保志真人さん
保志真人さん

取材日:2020年7月1日

KWDは町田・相模原を中心とした武相(ぶそう)エリアに約40の飲食店を展開しています。さらに、起業を支援する「コワーキング&シェアオフィス BUSO AGORA」や「Library&hostel 武相庵」を運営し、地域を豊かにする事業を多角的に進めています。このような成功を収めてきた保志さんが心の底で大切にしているものとはなんでしょうか。

飲食業を中心に据えて、地域をプロデュースする株式会社キープ・ウィルダイニング(以下、KWD)代表取締役の保志真人(ほし まさと)さんにお話を伺いました。

武相エリア:町田・相模原・大和・海老名・綾瀬・厚木・座間を指す。東京都と神奈川県が接しているこの地域の歴史を遡ると、文献に「武相」という言葉が見つかる。


──木村(インタビュアー):私もKWDさん系列のお店に伺いますが、スタッフの方々はいつも輝いて見えます。


保志さん:創業する前のことですが、会社でコマのような働き方をさせられたひとが辞めていく場面を何度も見てきました。

あえて言えば「ひとがダメになっていく」という姿でした。それにはフラストレーションを感じました。

そういうこともあって僕は、飲食業は「食」の前に「ひと」だと考えています。もちろんいろいろな考え方があると思いますが、少なくとも自分の事業で、最初から一つだけブレさせないでいるのは「ひとが輝く」ということでした。

取り組み方はさまざまですが、それを経営の軸にしています。


──まず創業の頃のお話を伺えたらと思います。

東林間(小田急線沿線で「武相」地域にある)で最初の店、「焼鳥 炎家」を持ちました。

それまで、3年くらいトラックに乗って運送業でお金を貯めていました。ところが、保証人になってくれるひとを見つけられませんでした。

それもあったので、独立(起業)しようと思って、いくつもの銀行に企画書を持ち込んだのですが、どこも門前払いで企画書を見てももらえませんでした。

この時の経験は、いまのBUSO AGORA(町田にあるシェアオフィス・インキュベーションオフィス。起業支援をしている)につながっていますね。


──最初のお店「炎家」の立地はよかったのですか。

立地はよくなかったですね。

東林間はいまとはちがって、商店街はシャッターが目立ち、しかも僕の店はその奥でした。当時、僕のお金でやれる物件はそこしかなかったんです。

でも、いまでは創業が東林間で本当によかったと思っています。東林間はとくにひとが温かかった。

下町っぽさがあって、お客様にはめちゃくちゃ可愛がってもらいました。助けてもらったし、ときにはすごく怒られて、地元のひとたちに商売を教えてもらいました。

いまも、町並みもひともあまり変わらないですね。最近も東林間に行ったら、軽トラに乗った畳屋のおじちゃんが来て「おお、久しぶりじゃないか!」と声をかけてくれました。

ああいう下町感は、なかなかない風景かなと思います。


──始まりが温かい街だったのですね。経営は順調だったのですか。

いや、軌道に乗るまで最初の2年くらいは大変でしたね。休みの日も月に2回ほど。

でも若かったですから。僕が28歳で、仲間も20代前半だったから体力だけはあった。みんなでがむしゃらに働いていました。

だけど、給料もろくに払えない時期があって、そんな時はスタッフとラーメン屋に行っていました。「好きなもの食べていいぞ!」と言うんですが、それが給料の代わり(笑)。

そんなでしたが、当時のスタッフのほとんどはいまもKWDで働いてくれています。

言ってしまえば、当時の僕らは「ポンコツ」だったかもしれません。自分も含めてね(笑)。

でもここから始めていつかは成功してやろうと、スタートを切る気持ちが強かったですね。


──いちから築き上げられたのですね。その頃の印象的なエピソードはありますか。

当時、食中毒を起こしてしまったことがあります。それが僕の「メディアデビュー」でした。

小さな記事ですが、全国紙に載ってしまいました。「鶏の生食」というメニューを始めようと、生の鶏肉の表面を焼いて出したんです。

ちょうど「炎家」が軌道に乗ってきた矢先でした。お店はいつも満席という混み方です。

そのタイミングで保健所から食中毒の認定を受けて、全国紙に店の名前が載りました。「事業もおれも、終わったかな」と思いました。3日間の休業でした。

でも、休業が終わったらお客さんがなだれ込んで来て、すぐ満席になって。さっき話した畳屋のおじちゃんが「おまえ、食中毒出したそれをおれに出してみろ。うまいじゃないか!」と言うんですよ。

うまいと言われても、そういう問題じゃないからと(笑)。だけど、手紙をくれるひともいましたし、お客様たちは「君たちはひたむきだから大丈夫だよ」と言ってくれました。

ちょうど僕たちはその頃、地域への恩返しの気持ちを込めて毎日商店街清掃を行っていました。その姿を地域の方々は見てくださっていたんですよね。

そういうことも含めて、あの時にも応援してくれたのだと思います。とても感動しましたし、助けていただきました。


──すごいエピソードですね。地元の方々に愛されていたことが伝わります。「炎家」の店長をしていた時期は長かったのでしょうか。

「炎家」は2年くらいです。3年目には新しく出店した店舗に行きました。

独立した時は「自分の城(お店)がほしい」「お金がほしい」「時間がほしい」と思っていました。一軒成功すればいいと思っていたんです。

だけど、「炎家」が成功したら、いまから思えば大きな額ではないのですが、当時の僕たちにとっては手にしたことがないくらいのお金が入ってきました。

それで、これだけあるお金を何に使おうかと考えました。でも、そんなに使うことがない。仕事ばっかりだったし、友達づきあいもほとんどしてこなかったし、彼女もいない。

「ああ、お金っていっしょに使うひとがいないとつまんないんだな」と気づきました。

その時、胸にぽっかり穴が空いた感じがしました。10年間、お金がほしいと思って仕事をしてきたのに、いざお金が入ると、うれしいのだけど、これをどうしようと考えてしまったんですよ。

そこで思ったのは「みんなといっしょに使わないと面白くない」ということでした。だから仲間と分け合って、一人一軒ずつお店をもとうと決めました。